αSearchブログ

くだらなく素晴らしい人生に、+αを探すブログ

スポンサーリンク

【ノンフィクション】亡き祖母から聞いた母親としての戦争体験

スポンサーリンク

スポンサーリンク

 

f:id:wumeko:20170729152512j:plain

北朝鮮問題をはじめ、世界各国で「戦争」が起こっています。

しかし、日本という国は戦争というものに対し本当に向き合っているのか?

他人事と思っていないか??

いざという時の覚悟はできているか???

と疑問に感じる事が増えてきましたので、私が20歳になった時に祖母から伝え聞いた実話をご紹介します。

戦争の話が嫌いな方は、読まずにページを閉じていただいて結構です。

 はじめに

 私の祖母は終戦時、中国の満州国に住んでおり、2015年に90歳で亡くなりました。 

 なお、この記事に書かれている事は、祖母の話をそのまま多くの方にお伝えしたいとの思いで掲載していますので、文中に出てくる表現に差別的な意図はありません。

 あえて、祖母の表現のまま記載していますこと、あらかじめご理解ください。

満州での生活

 祖父:一郎(仮名)は、陸軍兵士として妻(祖母):京子(仮名)と1歳の娘:聖子(仮名)ともに満州国へ異動する事となった。

 満州の比較的大きな屋敷には、召使として唐人(中国人)と韓人(韓国人)がいた。 

 周辺には同じように日本人が住んでおり、これまた同じように召使を抱えていた。   

 生活は安定しており、当時の水準では豊かな生活をしていたようだ。

日本敗戦

 1945年の日本敗戦を機に事態は大きく変わった。

 日本敗戦が伝えられた正にその瞬間、憲兵(日本の警察官)が各家を周り「日本が敗戦したので、今すぐ逃げろ!」と叫んだという。

 京子は娘を連れ、着の身着のまま逃げようとしたが、表通りは召使だった唐人と韓人が占拠・暴徒化しており、日本人は無残な仕打ちを受けていた。

 娘を抱える京子は困り果て、夫不在の中死を覚悟したそうだ。

満州脱出

 京子が娘と共に死を覚悟したその時、召使であった唐人が裏口から逃がしてくれた。他の召使には唾を吐きつけられたが、命まで取られることはなかった。

 召使として使われていた事に対する恨みがある中、女性子どもの命を助け、危険を顧みず逃げ道まで教えてくれるその行動は、当時の状況から考えて非常に勇敢な事であり、祖母は死ぬ間際まで、この時の唐人にお礼がしたいと言っていた。

 京子は、リンチや屈辱を受けている先程まで近所に住んでいた日本人を助ける事はできず、聖子とともに裏口から逃げ、各地から逃げ延びてきた日本人と合流し帰国を目指す事になる。

徒歩での逃亡

 京子は1歳の娘の他に第2子を身ごもっており不利な状況だったが、娘を死なすくらいなら共に死ぬ覚悟で歩き続けた。

 途中、大きな川を泳いで渡る事もあり、流される子どもや老人もいたそうだが、泣きながらひたすら逃げた。

港までの汽車の中

 数日歩くと、日本行きの定期船が出る港まで汽車に乗る事となった。

 車内は、同じように逃げ帰る人々で満員であり、女性と子どもばかりだった。

 汽車はスムーズに動くのではなく、定期的に止められた。

 そこにはロシア兵がおり、若い女性は降ろされ、何事もなかったかのように動き出した。

 ロシア兵は若くても子供を抱く女性にまでは手を出すことがなかったので、子どもが二人以上いる人は、子供のいない若い女性に我が子を抱かせ、できるだけ多くの人が帰還できるよう助け合ったそうだ。

日本へ帰国

 京子は港につき定期船に乗る事ができ、無事日本に帰国した。

 数年後、夫一郎も帰国した。

 一郎はシベリアへ行っており、無事帰国したようだが、私が小さい頃に他界したため、その間の出来事を知ることはできない。

最後に

 祖母が亡くなった時にこの話を思い出し、遺品の中から満州国時代の情報がないか探しましたが、写真一つ出てきませんでした。

 おそらく、祖母自身も忘れたい記憶であり、孫である私には言えないような体験もしているため、言葉を選びながら伝える事ができる一部を語ってくれたのだと思います。

 その証拠に、この話をしたのは私だけだそうです。

 

 この話から何かを感じ取っていただければ祖母の過酷な体験も生かされることと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。

スポンサーリンク